トップ  >  実践経営倫理塾 「経営にどこまで倫理を求めるべきか」 第5回 倫理的要求そのものとしての経営の論理(その2)
実践経営倫理塾 経営にどこまで倫理を求めるべきか

経営倫理実践研究センター フェロー
上智大学文学部哲学科講師
勝西 良典

回 倫理的要求そのものとしての経営の論理(その2)


啓発された自己利益

 ビジネスの現場はつねに進歩し続けている。利潤追求の背後で公益を実現するシナリオは、「啓発された自己利益」という概念を得て一層強固で信頼に足るものとなった。みずから公平な観察者の視点を獲得した方が利益に繫がるという論理は、世間やお上の目、すなわちリスクや懲罰に対する恐怖を下支えにして、法を代表とする各種の規範や慣例を遵守させる監視モデルよりも遙かに洗練されている。たとえばCSRの進化はそのことを跡づけている。
 アメリカの経営倫理学界の重鎮キャロルのごく初期の分析によると、CSRとは会社の経済的・法的・倫理的責任及び自由裁量に基づく責任を意味する。会社の存続が基本とすると、?ガバナンス中心のCSR(キャロルの言う経済的・法的責任に基づくCSRのレベル)が成立する。収益確保、品質管理、障害者を含む雇用確保、会社の理念・行動規範の策定・遵守、コンプライアンス、リスク管理が内容となる。次いで、会社の存続が社会的インフラに支えられていることから、?社会貢献としてのCSR(キャロルの言う自由裁量に基づくCSRのレベル)に進む。フィランソロピー、メセナなどの経済的貢献活動や、企業ボランティアなどの参加型貢献活動がそうだ。続いて、?の内的責任と?の外的責任が統合され?インテグリティを基盤とするCSRとなる。コーポレート・シチズンシップ(企業市民:法人たる企業も社会を共に構成する一員であるという考え方、ないし、そのような考え方に基づく企業のあるべき姿)概念はこの段階の特徴を端的に表している。国連の定義では、コーポレート・シチズンシップは「社会的利害や環境に関する利害を企業の経営戦略や事業と統合すること」である。ここでビジネスと社会の関係は内的なものとなる。会社内のエコ活動、ライフ・サイクル・アセスメント(LCA:製品の価値をライフ・サイクル全体[部品等の調達から廃棄されたりリサイクルされたりするまでのコスト?ベネフィット分析により評価すること])の導入、CSR調達などはこのレベルだ。EUが提唱する持続可能な資本主義は?のインテグリティを基盤とするCSRを内在化した資本主義であり、財務的成功、社会的責任、環境責任を要件としている。
 この流れは社会構造の改革と連動している。BOPビジネス(世界の人口ピラミッドの底辺を占める貧困層間で成立するビジネス)やマイクロファイナンスは、効率的に大規模な収益を得ようとするビジネスから見放されてきた人々を活性化させる。スマートグリッドという技術は、アダム・スミスの「見えざる手」とは異なる仕方で公平な電力供給を行う手法である。CO2削減や生物多様性といった新しい価値観が生まれ、ゲームのルールが変わりつつある。炭素税やキャップ・アンド・トレード、及び、国連グローバル・コンパクトやISO26000などの国際規格はその一例だし、国連PRMEといった?のインテグリティを基盤とするCSRを内在化させた経営者育成への挑戦は、こうしたルール変更を一段と加速させるだろう。社会的責任投資(SRI)や社会的責任購買(SRB)といった他のステイクホルダーの動向もこの流れを後押しする。以上を「啓発された自己利益」として理解できるなら、こうした経営の論理を超える倫理の出る幕はどこにあるのか。
 このような理解が行き過ぎた経済構造の浸透をもたらすのなら問題だ。考えてみてほしい。BOPビジネスやエコビジネスを社会性の事業化として肯定的に捉える裏で行われているのは未開の市場の開拓ではないのか。こうした事業は、最初は大した利益を生まないので、閉鎖的に運営されるだろう。だが、ある程度成長してくれば集約力を持つわけで、周りのより弱い地域から収奪しつつより強い地域の収奪対象となるか、強い企業の格好の水場となるかもしれない。経済的価値を生み出す資源が枯渇すれば収奪は完了し、企業は立ち去る。これは、地方都市が大規模商業施設の進出によって地元の商業を破壊された後、最終的には参入企業に撤退される悲劇だ。エコビジネスの場合も、政府の助成金がついたりインフラに対する初期投資が莫大になったりするだけでなく、技術の進歩も念頭に置けば、持続的かつ大きなビジネスチャンスと映る。こうした悲劇や疑念とは無縁の事業展開を「啓発された自己利益」という理念がもたらすのか。
 本シリーズで何度も繰り返しているが、収益を上げるのは義務だ。しかし、持続可能な資本主義の構成要件は相互に矛盾する価値でもある。社会的責任や環境責任を考慮すればコストの上昇は避けられないし、生活水準の維持という社会的責任を果たすには環境責任の一部撤回が必要だろう。?のインテグリティを基盤とするCSRは私益追求を目的の一つとする一企業に高度な調整能力を要求する。この調整を、啓発されたとはいえ自己利益という一元的基準で果たすことは可能だろうか。別の価値に裏打ちされた義務の衝突を調停するには、自らの論理を絶対化せず相手の論理の正しさをも受け入れる態度が必要だ。そのためには、自分の論理=自分が正しいと思っていることを一旦括弧に入れて、虚心坦懐に別の価値観を傾聴することが要請される。
 社会への配慮義務を企業に強く求めると、コーポレート・シチズンシップ概念は拡張され、CSRを超えた政治的要求となる。多国籍企業の環境や社会に対する影響力が高まるにつれ、このパワーに見合った責任の取らせ方が問題になり、国家を凌ぐその財政規模を尺度にするという観点が出てきた。だが、財政規模=経済的価値で責任の大きさが計られる限り、この観点は現実的で有効ではあるが、問題も残る。経済的価値と対立しうる価値の実現を経済規模の大きな主体に委ねるという構造はあまりに危うい。一企業に対して政治的承認(選挙など)を経ずに絶大な力を託すことにもなるし、社会貢献活動は政治的領域への不当介入であり企業権力の不要な増大を招く恐れもある。だとすると、「啓発された自己利益」の論理の外部に、その論理を超える倫理が存在する可能性に余地を残しておくことは、少なくとも、「啓発された自己利益」の論理への一元化の中で図らずも不利益を被る層に対する眼差しとして意味を持つことになるだろう。?のインテグリティを基盤とするCSRという理想が内に抱え持つ盲点を、この視線は照らし出し、このようなCSRの観点に立つ者が〈疑いを持たない、否、持ち得ない点〉=〈当たり前のようにこれこそ正義だと前提にしてしまっていること〉を〈本当のところは正義だかどうだかいまだ決着がついていないこと〉へと差し戻す。「啓発された自己利益」を超える倫理を認める態度はもう一度ここで共に社会契約を結び直すことを要求するのだ。
 たとえば、ワーク・ライフ・バランスやメンタルヘルスといった比較的個人的とされてきた問題は、経済成長に託された幸福追求物語からは見えない矛盾に光を当てた。極端に言えば、私たちは、怠惰で、経済的に非効率的であってもかまわないし、血気盛んで貪欲な向上心のある人からは見向きもされないような生活を送っても咎められる筋合いはないのである。そういう人間たちがそういう人間としての幸せのかたちを持つことを、私たちに拒む権利はあるのだろうか。安全・安心を盾に、大規模なシステム=共同体の(ビジネスの)論理=倫理を押しつけることによって、別の幸せを求めている人たちを利害関係者(ステイクホルダー)に仕立て上げたうえで囲い込む権利=義務など、私たちにあるのだろうか。
 ビジネスの論理は、むしろ、外部の世界を持つことによって利潤追求の一貫性を保てるのではないか。このことを自覚し、経営活動に携わる者は、政治的領域やプライベートな領域に手を出さない努力をしなければならない。「〈さらに〉啓発された自己利益」は、社会的な事柄を事業化せず、それにはかかわらない態度を求めるのである。社会性の事業化は確かによいことでもあるのだが、?事業化できないよいこともあり、?そうしたよいことのために事業化を断念しなければならないこともあり、?その判断を事業家としては慎むべき場合もあることは指摘しておきたい。部外者の的外れな忠告ともなりかねない外部監査が重要な意味を持つのは、外部監査によって、単眼がもたらす偏りを補正すること、すなわち、他者のパースペクティブに己をさらすことができるからである。古代ギリシアの哲学者ソクラテスを源流とする倫理、「無知の自覚(無知の知)」としての倫理、己の正しさを留保することとしての倫理は、経営最高幹部の倫理=「啓発された自己利益」の論理には決して還元されない。そうであることによって、「無知の自覚」の倫理は、経営の論理=倫理を下支えすることができるのではないだろうか。企業は、(より大きな)社会のエトランジェ(はぐれ者)であるという意識を解消してしまわないことによって、社会との健全な絆を保ち続けることができるのだ――そんなふうに小職は考えているのである。【以上は、拙論「ビジネスにおいてケアを求めるとはいかなることか――高次の倫理的要求の妥当性について――」(『異文化コミュニケーション研究』第23号、神田外語大学異文化コミュニケーション研究所、2011年(平成23年)3月、161-176頁、所載)の第2節(165-168頁)を本シリーズ向けに一部修正、加筆したものである。】

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次回(最終回)は、倫理的経営にかんする倫理学からのアプローチの例を紹介することによって、結びに代えることにしたい。実践的な経営倫理に対して、哲学ないし倫理学はいかなる貢献をなしうるのだろうか。


勝西良典氏 勝西 良典(カツニシ ヨシノリ)先生 プロフィール
 経営倫理実践研究センターフェロー
 上智大学文学部哲学科(キリスト教人間学)・講師
略歴 2003年3月 上智大学大学院哲学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得退学
2004年4月 上智大学文学部哲学科・助手(〜2007年3月)
2006年4月 東京学芸大学非常勤・講師(〜2007年3月)
         拓殖大学国際学部・非常勤講師(〜2009年3月)
         東北公益文科大学公益総合研究所・学外研究員(〜現職)
2007年4月 上智大学文学部哲学科・非常勤講師(〜2009年3月)
         麗澤大学経済学部・非常勤講師(〜2009年3月)
2008年4月 横浜市立大学国際総合科学部・非常勤講師(〜2009年3月)
2009年4月 上智大学文学部哲学科(キリスト教人間学)・講師(〜現職)
         青山学院大学総合文化政策学部・非常勤講師(〜現職)
2010年4月 国士舘大学・非常勤講師(〜現職)

主な研究領域:

ビジネス倫理学、企業の社会的責任論
哲学、倫理学、思想史
近現代ドイツ哲学
哲学的人間学、応用倫理学
過去の講演テーマ: BERC:高い倫理観を持つとはいかなることか
BERC:生きることをあきらめない倫理
産学協同:企業活動の自足性―CSRとコーポレート・シチズンシップの基盤構築のために
大学生:働くことの意味
介護:ケアの倫理と正義の倫理
主要著書: 『ビジネス倫理学』共著、晃洋書房
『経営倫理用語辞典』項目執筆、白桃書房
『利益につながるビジネス倫理―カントと経営学の架け橋』共監訳、晃洋書房
その他: 経営倫理実践研究センター(BERC)フェローとして、2009年度より、ケース部会(アドバンスト・コース)(梅津主席研究員主催:2009)、教育の啓発・研修ツール研究会(梅津主席研究員主催:2009〜現在)、ケース部会(ベーシック・コース)(星野主任研究員主催:2010〜現在)にかかわる
所属学会・研究会:日本経営倫理学会、日本哲学会、日本倫理学会、日本カント協会、日本フィヒテ協会(事務局幹事)、カント研究会(世話人)
メッセージ: ビジネスに対して(過度に)倫理を求めるべきではないという声も聞かれますが、それはある意味真っ当なご意見だと思います。しかし、ビジネスが生きることの根幹に位置づけられるものであり、生きることが生き物の義務なのだとすれば、ビジネス活動を持続可能な仕方で経営することは、倫理的に要求される責務ですらあるでしょう。くだらない「キレイゴト」の「リンリ」に煩わされることなく、ビジネス・経営のあるべき姿・かたちを一緒に探し求めていく勇気を持ちませんか?

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