倫理的要求そのものとしての利己的経営の論理
前回は、企業に「倫理」の鈴をつけねば、という考え方の成り立ちと根深さについてご紹介した。しかしながら、小職自身がそのような理解を持っているわけではない。そのような「リンリ教団」の主張とは裏腹に、企業の活動および経営の論理は、それ自体が倫理的なものでもあるのだ。
企業は、?よい製品やサービスを提供することによって社会に具体的な価値を創造し、?利潤を上げることによって株主に対する受託義務とともに納税の義務を履行し、?雇用を確保することによって市民の生活と納税を保障している。これらが倫理的でないのだとしたら、どのような行動が倫理的だというのだろう。極端な個人主義に立つのでないかぎり、これら3つの活動は、公益を実現するものとして倫理的だと言えるだろう。こうした活動を安定的に継続して、すなわち、持続可能なかたちで行うためには、それなりの資産を残せるくらいの利潤を上げていなければならない。財務ベースの安定とはそういうことだ。こうした3つの義務を果たすことは、フリードマン流の企業の社会的責任論においても要求される。
経営の論理を利己的なものと見なすフリードマン流の経営は、先の3つの義務を果たしているかぎりは、それ自身倫理的でもある。彼の立場が倫理的利己主義とも呼ばれる所以である。倫理的利己主義は、「人間は事実利己的だ」とする心理的利己主義から出発し、「人間は利己的である〈べき〉だ」という主張を展開する。倫理的利己主義からすれば、利己的であることは義務なのだ。私たち人間は、他人さんの損得や社会の幸不幸とやかく言う前に、人間社会の成員である自分自身を、人間社会に貢献できる人物として自立し、充足したものに仕立て上げねばならない。まさに、「恒産なきところに恒心なし」である。災害時に10億円寄付したり、不況時に自分の年棒を0ドルにできる人間は、そんなとてつもないことができるくらい潤っているのである。ここまで太らないと他人のことを考えることができないのかどうかはわからないが、少なくとも、自分を幸せにすることは人類社会にささやかな貢献をすることにはなるだろう。
いやいや利他的なこともしないとね、とたいていの人は言うことだろう。しかし、他人のためになることなど、そんなに簡単にわかるのだろうか。被災地へと援助に向かう芸能人が(売名行為だと叩かれないまでも)避難所にて困惑顔で迎えられるように、私たちの差し延べる手は、しばしばありがた迷惑でしかないのである。あるいは援助の手は、ODAからBOPビジネスへという流れが示しているように、相手の自立を疎外してしまうパターナリズム(父権主義:封建制下の当主と女子供の関係のあり方)に陥ってしまうからやめた方がよいかも知れないのだ。
以上のような倫理的利己主義擁護論を「へりくつ」と見る向きは、もう一度思い出してほしい。フリードマン流の利己主義的経営は、?よい製品やサービスを提供するかたちでそれらを求める社会に貢献し、?金儲けを通じて株主に対する受託義務を果たすとともに社会インフラに使われる税金を納め、?社会インフラの部分的担い手でもある納税者=従業員を養っているのである。株主(ストックホルダー)を中心に据えた利潤追求の経営は、結果として、顧客、従業員、地域社会といったその他の利害関係者(ステイクホルダー)の利益を生み出しているのである。
それでも、いやいや金儲けと効率性だけ考えていたらダメでしょ、とまだ言いたくなるかも知れないし、倫理的利己主義によってカバーできるステイクホルダーの範囲は小さなものかも知れない。しかし、たんなる一私企業が、どれほどの人たちを救わなければならないというのだろうか。そもそもどれほどの人たちを救えるというのだろう。アメリカ合衆国ですら(だからこそ?)世界平和を構築できないというのに、多国籍企業にせよ、どれほどの責任が課されるべきなのか。
国際社会において国家主権や国益が固有の権利として認められているように、企業がただ己の存続のためにだけに活動することは固有の権利である。これは法人という言葉から連想されるように、個人としての人間の権利に属するものでもある。人には他人様のことを度外視してでも生きる権利があるのである。そしてそのことは、他の人にとっては甚だ不都合なことも(場合によっては死ぬようなことも)あろうが、それでもその個人にとっては正しいことなのである。この「事実」を決して忘れてはならない。
ドイツでハイデガーやヤスパースといった哲学者に師事し、後にアメリカへ亡命したハンナ・アレントという哲学者は、『人間の条件』という書物の中で、人間の活動的生活を「労働」、「仕事」、「活動」に区別した。「労働labor」とは、個人としての人間が生存し続けるために必要な資源収集である。「仕事work」とは、個人としての人間が生存し続けるために資源の集合を目的と手段の関係という秩序によって組織することである。これは世界を自分の生存のために秩序づける活動的生活である。そして「活動action」の段階においてはじめて個人は、自分とはまったく異なってはいるが、同じように自己のために世界を組織している別の個体=他者に出会うのである。人間は「活動」の段になってやっと他者との社会的交わり、協力や団結や配慮(場合によっては対立)といった政治的生活に入るのだ。人間の出産は他者の協力無くしては成り立たないものであり、そのかぎりでは「活動」こそが人間の生命の原点とも言えなくはないが、このような協調路線は進化の過程で身に着けたものであり、より原始的には、「労働」という活動的生活が基盤であったと見なせるだろう。
アレントを引いて小職が言いたかったことは、ステイクホルダー・アプローチで分析する(「活動」のレベル)以前に、どの企業も生き残りのために資源を調達する権利(存続権・私有財産権・環境利用権)があり(「労働」のレベル)、生き残りを持続可能なものにするために世界をネットワーク化したり世界を加工し組織化したりする権利がある(「仕事」のレベル)、ということである。昔の歌ではないが、「我が社のため世界はあるの」という蜜月の末に他のステイクホルダーが立ち現れるのであり、先の言葉を借りるなら、倫理的利己主義を貫いた果てに、はじめて利他的であるべきか否かを問うことができるのである。
「経営倫理」という看板を掲げてこのようなことを言うのは憚られるかも知れないが、その果てに現れる他者に対してステイクホルダーとしての敬意を払うべきかどうか論じないかぎり、端から問題など無かったということになるだろう。多くの場合、自分の属する集団を多数派=「フツウ」と(勘違い)し、その慣例に従わないものを「おかしなヤツ」として排除ないし矯正ないし無視するかたちで済ませているはずだが、そうした見方からは、事態は「問題」ではなく、せいぜい「困ったこと」として認知され処理されることだろう。
小職からすれば、経営倫理において要求されるのは、他者との関係を利害の対立としてではなく、つねに倫理的対立、すなわち、義務の衝突として理解するセンスである。〈自らの生存地平を保障している規範〉、すなわち〈倫理的に利己的なルール〉と対立するかたちで、〈他者の生存地平を保障している他者にとって利己的な倫理規範〉が存在していることに気付くことによってはじめて、「倫理」という問題圏が開かれるのである。
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次回は、自己と他者の対立を超えるような倫理的経営の可能性として、インテグリティを基盤とするCSRやコーポレート・シチズンシップ(企業市民)という概念について検討したい。地球規模の環境問題や限られた資源の平和な利用を考える時、倫理的利己主義のモデルを原点とすることには抵抗を感じられる方も多いことと思う。企業の自由な活動は、ローマの自由市民たちが相互に信頼を醸成しながら同じルール(市民法civil law)を守ってきたように、あらゆるステイクホルダーとwin-winの関係を構築できるように自己統制されうるのだろうか。
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