「経営の論理と倫理的要求とは対立する」という物語の誕生
前回、経営の論理を利己的なものと見なすミルトン・フリードマンの立場をご紹介した。企業は株主に対してのみ受託義務を負うのであり、株主の利益のためにも、ひたすら市場のルールに従って利潤を最大化すべし、という考え方は、それ自身倫理的な立場でもあるので、倫理的利己主義と呼ばれる。すなわち、私的利潤追求に邁進することこそが倫理的に正しいという主張となるのだ。しかしながら、われわれの多くは、利他的なことこそ倫理的だと考える。そして、利己主義者に対しては、自分勝手で非倫理的だというレッテルを貼る。こうして企業の営利活動は非倫理的なものとされるのである。
企業の屋台骨は営利活動である。これが非倫理的とされたわけであるから、経営の論理が非倫理的なものだとされたことになる。かつて、アメリカのビジネスパーソンで学者でもあるアルバート・カーは、「ビジネスでブラフ[はったり]を使うことは倫理的か?」という論文(『ハーバード・ビジネス・レヴュー』誌、第46号、1968年1・2月)を世に問い、ビジネスをポーカーに譬えてみせた。ビジネスという勝ち負けを競う戦場では、普通の意味での道徳がまかり通ることはないが、そのことを問題だと感じる者はいないというのである。当時のアメリカのビジネス界でもさすがに、すさまじいまでのネガティブな反響を呼んだようだが、「そんなぶっちゃけトークされたら商売でけまへんがな」という話に過ぎないのかも知れない。
アメリカと比べれば、日本では経営責任を問われる層の人たちがライオンズ・シェア[(不当に)大きな分け前]に与っているとは言えないのかも知れないが、年収500万を安いと見るかどうかの感覚は、一つの試金石になるかも知れない。日本にも、おそらくこれを破格に安いと感じる層がかなりいると思われるが、これを家族4人が食っていける収入と考える人がおそらくそれ以上おり、そうした人から見れば、そうした層は「ライオンズ・シェアに与っている人たち」なのである。なぜなら、「それ以上のお金を稼ぐなんて、何か悪いことをしているにちがいない」からである。かくして、〈経営の論理=金儲けの論理=非倫理的〉という理解の図式ができあがり、営利活動を行う企業には「倫理」の鈴をつけねばならない、と人は考えるようになる。
以上見たように、?経営の論理が利己的なこと、そして、?経営の論理が競争に勝つための論理として結果的に勝者と敗者の格差を生み出していること、この二点によって、「経営の論理と倫理的要求とは対立する」という物語が構成されていることがわかった。当たり前のことと言えば当たり前のことであり、「わかった」などと「したり顔」で言われても、と思われる向きも少なくないであろうが、「弊社のステイクホルダーのみなさんは、このような目で、きみを通して弊社を見ているんだぞ」ということを全従業員ないしスタッフに徹底して指導している企業がどれくらいあるだろうか。
極悪非道ではない経営者は、このような物語を不当な偏見のうえに成立するものと見なしたくなるだろう。しかし、この物語は意外に強固なロジックを持っている。
経済は等価交換で行われているかぎり、売り手と買い手のあいだに原則勝ち負けはない。情報の非対称性を利用した詐欺行為(まがい物をつかませたり、代金を支払わなかったり、といったこと)が行われないかぎり、損得はない。複数の売り手と買い手が存在することによって、売ることのできた者とできなかった者、買うことのできた者とできなかった者が出てきてはじめて、格差が生まれる。この差は、「できた」「できなかった」という言葉で表されていることから明らかなように、勝者と敗者を截然と別つ。すなわち、人は、勝者となって敗者に恨まれるか、敗者となって勝者を恨むかに別れる。そうであるかぎりは、このシステムにおいては必ず、敗者とされる儲けていない人が必ず排出され、その人たちは儲けることができた勝者を非難することになるのである。よっぽど奇跡的に「見えざる手」が働いてバランスが完全に取れている時はよいが、それ以外の時は多少はバランスが崩れているのであり、そうした状況下では勝者に対する非難の声が止むことはないのだ。
たとえば、福島第一原子力発電所の問題も、そのような文脈で理解できる。ここでは、東京電力、原子力発電関係のメーカー、原子力委員会、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、そして政府に事実どのような責任があるのかは問わない。しかし、天災とも人災とも言われるこの問題において責任を問われるものの側に置かれるのは、つねに「勝者」「儲けている者」の方である。そして、そちらの側に置かれている者が本当に勝っているのか、本当に儲けているのかすら、実は問題ではないのだ。しつこいくらいに繰り返すが、事実関係など一切問題ではない。〈勝ち?負け〉〈儲け?損〉という理解の図式が幅を利かせているかぎり、不都合な出来事の責を「儲けている」企業の側に帰すという物語、「経営の論理と倫理的要求とは対立する」という物語は決してなくならない、と言いたいのである。
人間なんてものは単眼で、狭い視野しか持たない。だから、企業で働く人々も、自分が実際にかかわっている人々の視線を意識することがせいぜいで、ましてや直接かかわりを持たない他者から、どのようなイメージで自分ないし自社が捉えられているのかを意識することができない。だが、経営の論理を貫いて社会で生き残ることは、「人のため」ではなく、「自分のため」に複眼的で広い視野を持つことを要求するのであり、ステイクホルダーの利害を計算に入れることは、ビジネスというゲームで勝ち残るための定石なのだから、「経営の論理と倫理的要求とは対立する」という物語の登場人物として、自分はどのようにふるまうべきか、つねに自覚していなければならないのである。この物語が正しいかどうかを問題にする前に、このような物語に巻き込まれてしまっていることを「事実」として受けとめる必要があるのではなかろうか。
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