●過去の成功体験から決別―アベノミクスのスタート
だれしもあることで困ったことですが、人間は過去の経験によって現在の行動が大きく支配されてしまうことがあります。成功した経験、つまり成功体験が通用しているうちはいいのですが、通用しないときが必ずやってきます。
いまはアベノミクスで多くの企業の業績が回復してきましたが、ここに至るまでには幾多の試練がありました。また今後もその可能性は十分あります。「未曾有(みぞう)」とか「百年に一度」とかいわれる不況も経験したのですが、その都度、以下のように「過去の成功体験が通用しなくなった」と言われたものです。
●飛べないネズミ
S・I・ハヤカワというカナダ生まれの日系アメリカ人言語学者が、その著書『思考と行動における言語』(大久保忠利訳、岩波書店)のなかで、ミシガン大学のマイヤー教授が行ったネズミたちに神経症を起こさせる興味深い実験を紹介しています。その実験は、次のようなものです。
壇上にいるネズミたちに、下にある扉をめがけて飛び降りさせる訓練をします。扉は2つあって、右側の扉は開かないようになっているので、当然、こちらに飛んだネズミたちは、したたかに扉に鼻を打ちつけることになります。
一方、左の扉は開くようになっており、しかも、扉の向こうにはエサまで用意されているのです。こちらに飛ぶと、ネズミたちは痛い思いをするだけでなく美味しい思いもできることになります。
こうした経験を繰り返しているうちに、やがて、ネズミたちは左側の扉にしか飛ばなくなります。痛い思いをしないで、美味しいものにありつける方法を経験によって覚えたわけです。
そこで、ネズミたちが慣れたころをみはからって、右と左の扉の構造を入れ替えてしまいます。つまり今度は、右側の扉が開くようになっていて中にはエサが用意されていますが、左側の扉は閉じたままです。
そうとは知らないネズミたちは同じように左側の扉に向かって飛ぶのですが、今度は鼻を扉にぶつけるだけになってしまいます。
左に飛んで痛い思いをしたネズミたちは、「それなら」と今度は、右側の扉に飛んでエサにありつけるようになる、かといえば、そうはなりません。何回か左側の扉に飛んで痛い思いをしたネズミたちは、ついには飛ぶことを止めてしまうのです。
空腹で死にそうになっても、左側の扉にも右側の扉にも飛ぼうとせず、壇上にジッとしたままになってしまう。ただ、死を待つだけになってしまうのです。
なぜ、ネズミたちは飛べなくなってしまったのか。それは、過去の成功体験に引きずられているからです。
これが、ネズミによる実験の結果です。しかし、まったく同じことを会社組織のなかで人間たちもやっています。
若いころの成功体験をもっている企業の幹部の多くが、その成功体験のなかでしか考えられなくなっている状況は珍しいことではありません。
左側の扉に飛んで成功した経験をもつ幹部は、状況が変わっているにもかかわらず、部下に左側の扉に飛ぶよう命じ続けます。結果、部下たちは扉にしこたま鼻をうちつけるだけで、エサという成功を手にすることはできません。企業の業績は悪化していくばかりです。ついには、ネズミたちのようにジッとしたまま、動けなくなってしまう。そして、死=倒産を迎えることになります。
すでにお分かりだと思いますが、大事なことは、状況が変わったなら、過去の成功体験は通用しません。むしろ、それが命取りになってしまう可能性が高くなります。
サブプライムショックからリーマンショック、さらにはドバイショックへ、というように過去の好況の時代から大不況と、経済の状況がガラリと変わってしまった場合には、まずは、成功体験を捨てることです。
そして、決して立ち止まってはいけない。左側の扉が閉まってしまったなら、右側の扉に向かって飛ぶ勇気をもち、飛んでみることです。状況は変わっているのだから、右の扉が開くようになって中にエサがある、ということはありうることなのです。それができずに「飛べないネズミ」になってしまった企業は、逆境の大波にのみこまれてしまうしかありません。
●成功体験を壊したパナソニック
以前パナソニック(旧・松下電器産業)には「V字回復」という言葉がありました。
急激に下がった業績を一気に回復させることで、その業績を折れ線グラフで表すと「V」の字になっていることから、そう呼ばれています。
パナソニックは、文字どおりのV字回復をやってのけ、世間を驚かせた経験をもっている会社です。
2001年度連結決算でパナソニックは、売上高で前年比10%減の6兆8767億円となり、営業利益でマイナス2118億円、純損失もマイナス4310億円という創業以来の大赤字に転落してしまいました。
そして1万3000人を超える大リストラに踏み切り、「人員整理をしない会社」として知られていただけに、世間に大きなショックを与えました。「あのパナソニック(当時は松下電器産業)がリストラするくらいだから、他の会社が大リストラに踏み切るのも仕方ない」と受け取られたのです。
しかし、そのパナソニックが翌年の2002年度決算では、純損失こそマイナス195億円と赤字から脱却することはできませんでしたが、売上高は対前年比5%増の7兆4017億円、営業利益も1995億円となり、わずか2年で完全に黒字転換という、鮮やかなV字回復をなしとげてみせたのです。
当時のパナソニックの社長は、中村邦夫氏(現・相談役)でした。
図表-1 経営改革を訴える中村邦夫社長(現・相談役)
写真提供:パナソニック コーポレート・コミュニケーション本部 広報グループ
彼が社長に就任したのは2000年6月で、すでに赤字転落の兆しが見えはじめているころのことです。そこで彼は就任時からV字回復を視野に入れており、就任翌日には次のメッセージを全社員に向けて発しています。
「経営理念以外はすべて壊してよい。マネジメントスタイル、事業のあり方、オペレーションなど、すべての面をデジタルネットワーク時代にふさわしいものに変革していかねばなりません」「20世紀の成功体験を否定する思い切った改革と、21世紀の新たな成長戦略の構築・推進にチャレンジしなければならない」
●いま一度、ゼロから始まるパナソニック
こうして逆境から脱出したパナソニックでしたが、近年、また厳しい経営環境に追い込まれています。同社の津賀一宏社長は、2013年9月4日にロイターのインタビューで、携帯電話事業について、個人向けスマートフォン(スマホ)事業を縮小する一方で、法人向けの通信機器の開発を強化していく方針を示しました。テレビ事業の見直しも検討中とも言われています。いま一度、「経営理念以外、全てを壊してゼロからの再出発」を始めようとしているパナソニックの動向に注目していきたいと思います。
●企業文化を壊すことから始める:資生堂の経営改革
化粧品国内首位の座にあってグローバルなブランド戦略を積極的に展開し、華やかなイメージのある資生堂ですが、1983年から87年にかけてショッキングな出来事に見舞われました。
現役の社長が、それも二代続けて急逝してしまったのです。リーダー不在の組織は、船頭を失った船のようなもので、どこへ向かっていいのかわからなくなってしまいます。社長の急逝が続いた資生堂も、そんな状態に陥ってしまいました。
当時は、業績の悪化もあって、社員たちのモラールは低下し、活力は失われていました。資生堂という看板に頼るだけの「事なかれ主義」がはびこり、新しいことにチャレンジしたがらないで保身だけに汲々とする「官僚主義」が社内を支配していました。企業として前に進めない、危機的状態だったのです。
そんななかの1987年、新社長に就任したのが資生堂の創業者である福原有信氏の孫にあたる福原義春氏(現・名誉会長)でした。社長となった彼は、流通在庫の大幅圧縮をはじめとする経営改革に大胆に取り組んでいきます。
同時に、社内から公募したメンバーからなる「経営改革室」を設置して、大企業病に犯された組織に次々とメスを入れていくのです。経営改革室を設置するにあたって当時の福原社長は、次のように社員に語りかけています。
「経営改革の基本原理は簡単だ。これまでは、社員がみんな上だけを見ていた。その視線を90度横にして、社会とお客様を見るようにしよう」
そして、大企業病に犯された組織の改革が始まったのです。まずは新しい経営理念をつくりました。しかし、この経営理念による意識改革は時間を要します。
●「さんづけ運動」への取り組み
そこで、すぐにできることから始めようということでスタートした活動の一つが、「さんづけ運動」でした。この運動をやるについて、福原氏は社内に呼びかけました。
「本来、人間には上下はない。社長といっても職名で、ただその役割を担っているだけだ。社長の地位が偉いわけではない。社内で、いちいち『社長さん』と丁寧に呼ぶことのほうがおかしい。どうぞ、福原さんと呼んでください」
日本の企業社会では、それまで「出世」に重点がおかれてきました(いまでも、そんなに大きく変わったとはいえません)。その象徴が職名で呼び合うことでした。「○○部長」とか「○○課長」と呼び合うことで上下関係をはっきりさせ、確認しあっているようなものです。
職名で呼ばれることが誇りであり、より上の職位につくために「がんばろう」という気にもなったという人もいました。
しかし、それで組織が活気づくというものではありません。社内で上の職位を目指すことが企業業績につながっていけばいいのですが、出世のために上司のご機嫌とりに精をだす、というようなことにもなりかねません。
大企業といわれるような大きな組織になると、それが起きやすく、大企業病の典型的な症状でもあります。大企業病を克服するには、まず、ここを壊すことが重要だと当時の福原社長は考えたわけです。
その後、同じような「さんづけ運動」は、大企業病に陥った他の企業にも広がっていきますが、資生堂が始めたときは珍しく、マスコミにも大きく取り上げられたりしたものです。「さんづけ運動」が資生堂で導入された当初は、「○○部長」ではなく「○○さん」と呼ばれて返事をしない人も少なからずいました。
さらに、職名ではなく名前で呼び合うことで上下の隔たりをなくし、風通しの良い組織で自由に発言できる雰囲気を醸成するという狙いもありました。上下関係に縛られて自由に発言ができない雰囲気があり、そのために組織としての活気が失われているのも大企業病の明らかな症状です。この雰囲気を壊すにも、「さんづけ運動」は有効でした。
●「服装の自由化」を進める
この「さんづけ運動」は、それまでの上司を「肩書きで呼ぶ」という会社組織の常識を覆し、資生堂の企業文化に大きな風穴を開けたような結果をもたらしました。そして、それはある意味で、日本の会社にセンセーショナルな話題を提供することにもなりました。
しかし、その浸透・定着にはさまざまな苦労もありました。例えば、次のようなことを口にする社員もいたようです。
「3月31日に辞令をもらって家に帰ると、『お父さん、明日から課長だね』といって赤飯を炊いてお祝いしてくれた。それなのに4月1日から『さんづけ運動』が始まってしまい、社内では『課長』ではなくて『○○さん』と呼ばれる。これじゃ今までと何も変わらない。いったい俺は、何のためにがんばってきたのか、わからない」
笑い話のようですが、実際にあった話なのです。その人にとっては、仕事することが、お客様や社会、そして会社のためではなく、出世することとしか考えられていなかったのです。
これでは企業としての成長につながっていくわけがありません。「さんづけ運動」は、そうした大企業病に対するショック療法だったわけです。
そして、「さんづけ運動」と同時期にやったショック療法が「服装の自由化」です。
「美をテーマにしている人たちは、常にクリエイティブであってほしい。自分の仕事にあった服装を自由に選ぶのは当然だ」と、福原氏は語っています。
資生堂は化粧品という夢を売るのが商売です。にもかかわらず、そこの社員がダークスーツ一辺倒という没個性な服装をしていては、とても夢など語れない。夢を売る企業で働く社員は、夢を語れなくてはいけない。
それには、自由な服装でおしゃれを楽しむ企業風土こそが必要だ、と福原氏は考えたわけです。その手本を示すために福原氏は、セーターとスラックス姿の自分の写真をポスターにして全国の販売会社に配布したのです。
言葉だけで人は動かない。"今日から、社長は「福原さん」"のポスターに見られるように、まずは自ら見本を示すことが最も重要なのです。
図表-2 資生堂の社内ポスター「さんづけ運動」(1988年)
資料提供:資生堂広報部
●過去の?常識?を破る、新しい文化が必要
なぜ、資生堂はいきなり「さんづけ」とか服装の自由化に取り組んだのでしょうか。今では日本の企業の中でも幾つかの会社が「さんづけ」や「服装の自由化」に取り組んでいます。その目的やねらいなども含めて発想の原点ともいえる「本質的なルーツ」をきちんと理解しておくことは、物事を推し進めていく上で極めて重要なことと思います。
そこで、最後にまずそのことについて触れておきたいと思います。特に、服装の自由化は現在のクール・ビズとは発送の原点が全く異なりますので・・・。
この2つの運動の背景には、資生堂の経営改革における一連の流れがあったからなのです。これまで述べたとおり、資生堂の大企業病を克服するには、そもそもの文化を変えることが必要でした。そのために資生堂は、大局的な視点から将来を見据えて新しい企業理念の構築を進めていったのです。しかし、企業理念の定着には時間がかかります。そこで、資生堂はすぐにできることから始めたのです。
大企業病という病を克服するためには、それまでの企業風土を「壊すことから始める」必要がありました。そのために資生堂は、「さんづけ運動」と「服装の自由化」という、それまでの?常識?を破る新しい文化をもちこんだのです。
参考文献
S.I.ハヤカワ著・大久保忠利訳『思考と行動における言語』岩波書店、1985年
松下電器産業株式会社『松下電器五十年の略史』1968年
松下電器産業株式会社『松下電器 激動の十年』1978年
松下電器産業株式会社『松下電器 変革の三十年』2008年
福原義春『会社人間、社会に生きる』中公新書、2001年
水尾順一『逆境経営 7つの法則』朝日新書、2009年
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